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こんにちは。栁澤蘭丸です。
最近誰かの生存説の話ばっかりしている気がする…。前回は「源義経」、それより前には「明智光秀」や「真田幸村」の生存説でした。
今回は、真田幸村生存説の続き…?の話をしたいと思いまっす。
真田幸村生存説の拠り所となっているのは、「首実検(討ち取った相手の首が本人のものかどうか検分する作業のこと)」を担当した、真田幸村の親戚の叔父さん「真田信尹」が「ぇえと…これ、本当に信繁(幸村)の首かどうかちょっと自信ないかも…人相が変わっちゃってるような気もするし本人のような気もするし…モゴモゴ。」とはっきりしたことを言えなかったことであるそうです。ただし首実検を行ったのは真田信尹ではなかった、という資料もあります。
そして、豊臣家を慕う大坂の民衆の間で流行った歌…「花のようなる秀頼さまを鬼のようなる真田がつれて、退きも退いたよ加護島(鹿児島)へ」。徳川への不満をそらすために、幕府側が意図的にこのような生存説を放置していた、という話もありますが、ともかく幸村が生き延びたという話は、大坂の陣の後すぐからもうささやかれていたわけなんです。
でもって、今日の主役は鬼のようなる真田さんではなく、花のようなる秀頼さまのほう。秀頼の生存説について触れている書物は実は少なくなくて、イエズス会のフランス人神学者ジャン・クラッセ著の「日本西教史」には、「豊臣秀頼は母と妻を伴って、辺境の豊臣恩顧の大名の元に逃げ延びた」と書いてあります。秀頼の妻として一番有名なのは家康の孫の千姫ですが、千姫の最期ははっきりしているので別の妻ってことになるんでしょうか。その他には、イギリス人のリチャード・コックスがイギリス商館長時代に書いていた日記の1615年6月5日の部分には「秀頼の遺体はついに見つからなかった。琉球・薩摩に逃げ延びたと信じるものが少なくなく、家康が、大坂城から脱出した者を総出で探している」とあります。幕府にとって、生き延びていると民衆が信じるのは別にいいんだけど本当に逃げ延びられちゃってるのは困る…っていう感じだったんでしょうか??
ところで、大坂夏の陣(秀頼が九州に逃げ延びた?とされる、大坂城が攻め落とされた戦い)から約23年後…九州・島原地方で、日本史上最大の一揆が起こります。その名も「島原の乱」…指導者は、天草四郎時貞。この一揆、キリシタン弾圧に対する抵抗と思われがちですが本当は圧政に対する農民の蜂起という側面も強いので、天草四郎はカトリック教会から聖人認定はされていません。天草四郎はキリシタンだから戦った、というだけではなく、徳川に対抗するために戦った人でもあったのです。
「天草四郎」は、本名ではありません。天草って、地名ですしおすし。天草・島原地方で起こった乱=島原の乱なのです実は。本名については「増田四郎時貞」であるという説が有力…なんですが、じーつーはー、天草四郎は豊臣秀頼の遺児である…という説があるんです!
島原の乱が起こったのが、大坂夏の陣で逃げ延びた秀頼の子が大きくなって乱を起こすのにはちょうど良すぎる時期だったというのが大きいかと思うのですが。
鹿児島では、天草四郎の本名は「豊臣秀綱(とよとみのひでつな)」であると伝わっています。また、戦で大将の居場所を示すために立てたのぼりに使われる「馬印・旗印」に、天草四郎は豊臣秀吉が使っていた「千成瓢箪」を使っていて、これが許されるのは秀吉の子孫だけだ!!とも言われているんですが…。島原の乱って野戦じゃないんだけど、そんなん必要だったんかな?という疑問は蘭丸にすら残ります。馬印・旗印で他に有名なのは武田信玄公の「風林火山」とか、上杉謙信公の「毘」とかが有名ですね。島原の乱は原城に一揆軍が立て籠もった、いわゆる籠城戦なので本陣とかそういうのあるのか私には分かりません…不勉強です。
そんなわけで、島原の乱とは、対徳川の戦いであるのは確かですが、もしかしたら、大坂夏の陣に続く豊臣対徳川の戦いだったのかもしれないのです…(?)。「花のようなる」と言われるほど美青年だった秀頼の子が、カリスマ美少年天草四郎とは、なかなかなかなか、夢がある話かもしれません。ただし秀頼は美形だったけど恰幅も良かったそうですけどね!美少年のイメージとはちょっと違うけど!!
ちなみにこの戦いで宮本武蔵は、城から投げ落とされた石に当たって足を負傷したりしてます。石に…。痛そうだけど…武蔵なのに…!
栁澤蘭丸でした~。ではではでは~。
天草四郎と言えば…鳩!
Studio POPPOの変な記事担当です。武田信玄の軍配が欲しくて100円貯金しています。ゾンビが来たら軍配で殴るつもりです。(よくないゲームの影響を受けている)