まだまだいる「実はその時は影武者が死んだだけ系武将」~真田幸村編~(人・∀・)

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栁澤です!

前回の光秀さんに続き、今回も「実はあの時死んだのは影武者で、本人は別のところに逃げのびて生き続けてたんだよ!」系武将を紹介したいと思います。今回は昨年の大河ドラマ「真田丸」の主役…真田信繁こと真田幸村さんについて!

幸村さんと言えば、文字どーり外堀を埋められて(←「外堀を埋める」の語源)籠城戦が大得意だったはずが籠城できなくなった大坂城で、どうしようもないので家康本陣に打って出て、家康をビビらせ本陣から逃げ出させるという功績(?)の持ち主です。最後の最後で、騎乗しながら使えるように小型化された銃(馬上筒)を落っことしちゃって家康をやっつけ損ねたとか、その辺にも色々なエピソードを持った、何故か戦国一熱血やら朴念仁やら死に急ぎ野郎が似合うようになってしまった大人気武将です!平成になってから急にね汗

史実に伝わっている幸村さんの人生はと言うと…、本名「真田源二郎信繁」と言います。大河を見ていた人ならまぁ耳にタコだと思いますが、幸村ではありません。家族からは「源二郎」、同僚からは「左衛門佐(さえもんのすけ)」と呼ばれたであろうという感じです。「幸村」という名前は、真田家に代々受け継がれてきた「幸」と言う字と、徳川家に不幸をもたらすアイテム「妖刀村正」の「村」を取って、大坂の陣あたりではこう名乗った?みたいな話があったりして出てきた名前なのですが、大体が「信繁」で通っています。ウーン急に地味な印象。この記事ではこのままみんなになじみ深い方の「幸村」で行こうと思います。
幸村は信州の真田昌幸の次男坊として生まれ、兄の信幸(後の信之)が長男として大事に大事に育てられたのとは対照的にまあまあフリーダムに育てられたようですね、うん。誰が長男なのか分からないようになのか…、信幸は長男なのに「源三郎」で、幸村が「源二郎」だし、家自体なんかあの時代にあっては結構フリーダムな家ですし。父は「表裏比興の者(表も後ろも顔みたいな人と言う意味。なにそれ怖い)」と言われたクセモノ。信玄公には「お前ってワシの目みたい!」と褒められた(ワシみたいに洞察力あるね!って意味)という話も伝っている智将で、「家康が最も恐れた武将ズ」に名を連ねている人です。「最も恐れた」なのにたくさんいるところが家康のチャームポイントですよね。うんうん。もちろん幸村もランクインしています。「最も=ナンバーワン」なので、全員が一位ってことで、実際はランクイン…ではないのですが…汗

で、幸村は武田信玄の家臣と思われがちなんですが実は信玄にマトモに仕えることができていたのは幸村のじいちゃんである真田幸隆。父の昌幸はギリ間に合ったかなって感じで、幸村に至っては若すぎて信玄の時代には武田家家臣という感じではなく、ちゃんと仕えることができたのはその後継者の武田勝頼さんでした。信玄公が華々しく活躍する川中島の合戦やら、三方ヶ原の合戦やらの諸々は幸村というか幸隆・昌幸が参加した戦いなのです。(長篠の戦いの時はもう勝頼さまなのです)
というわけで幸村が活躍する戦と言えば「大坂の陣」。1614年の冬の陣では、大坂城からちょこっと離れたとこに真田丸という出城(砦)を築いて敵を防いだ話は有名ですよね!その翌年の夏の陣では、真田丸は壊され、前述のとおりお堀を埋められてしまって素っ裸。なんやかんやと幸村は勝とうと頑張りますが、淀殿とか淀殿とか色々な障害がありあまりうまくいかず、結局のところどうしたかというと、家康本陣につっこんでいきました。あと一歩で家康の首がとれた~?というところで及ばず、負傷して一旦逃走しますが、首をとられます。討ち取られた場所については諸説ありますが、最近では高台で休んでいたところを討ち取られた説が有力みたいですね。完。

というのが、歴史の伝える幸村なのですが、この首にひとくせありまして、当時は首をとってきたら「首実検」という検証をすることになっていて、本当に本人かどうかそこで判断していたのですが、ここで徳川側についていた幸村の叔父さんである真田信尹が、ちょっと聞き捨てならないことを言ってしまうのです…「うーん…信繁かどうかちょっと分からないかも…。」と…。何か面相が変わってるような気がするような感じもあるようなないようなムニャムニャ、と、当時もうオジイチャンの域に達している信尹さんが言うので、家康は「はぁ?!」となるのですが、首がかぶってた兜が間違いなく本人のモノだったのでもうこれは幸村!幸村討ち取った!ということにされました。(諸説あり。幸村と証言したのは真田信尹ではないという資料もある)ちなみに討ち取ったのは、幸村が本陣につっこむ際に盛大に蹴散らされた「越前松平家」の西尾宗次さんで、越前に帰ってから信繁のお墓を作っています…何故そこに?汗

ってな、「真田信尹ムニャムニャ事件」があったので、この時死んだのは影武者だったのでは?という話が出てきたわけですね。実際、幸村には影武者が何人かいたそうです。そして、その後幸村はどうなったのかというと…豊臣秀頼を連れて鹿児島まで逃げていった…と、当時の大阪でもっぱらの噂になります。豊臣好きな大阪の人達からすれば、豊臣家家臣である日本一の兵によって秀頼が逃がされて生きているというのは喜ばしい話なので、歌まで作られています。結構有名ですが…「花のようなる秀頼さまを鬼のようなる真田がつれて、退きも退いたよ加護島(鹿児島)へ」ってやつですね。でも秀頼さまは、貫禄のある、ガタイの立派な青年だったようなので「花」なの?って気はしますが。「真田三代記」という江戸時代中期の読み物でも、この説が採用されています。まぁ物語なのですけどね。秀頼生存説なんぞが当時盛大に噂になっているのに家康が本気にしていなかったのはやはり首が幸村本人のものと断定できる人物がいたということでしょうし、またそういう噂を流しておけば大阪の人たちも溜飲が下がるというか、不満が逸れるということもあって、ほっといたのかなぁ…とか思います。

鹿児島行き幸村の物語(?)は、退いただけでは終わりません。逃げ延びてそこで幸せに暮らしましためでたしめでたし的な終わり方をする場合もあれば、鹿児島に逃げ延びたのはいいけど秀頼さまのほうが先に亡くなったので、幸村はそのあと旅に出るという伝承もあります。幸村が辿り着いたのは秋田県。そこで「真田紐(真田家の人が何かと困窮すると編む紐…ということで有名な信州の特産品)」を売る、「信濃屋」という商人になったとも。ちなみにこの「信濃屋」さんは実在していたことが分かっていますが、幸村だったかどうかまでは分かっていないそうです。

とまぁ、全然有名じゃない伝承まで入れると結構な数ある幸村の「実は死んでなかった話」。よほど生きていてほしかったんですねぇ…。今も昔も愛されまくる、真田昌幸さんの次男で日本一のツワモノ真田幸村さんなのでした。

まだまだいる「実はその時は影武者が死んだだけ系武将」~真田幸村編~(人・∀・)_挿絵1
元祖代表的平成幸村(?)
それまでのイメージ、イケメンナイスミドルではないのだった…。でも享年は49だよ!信長さまと同じだよ!

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