源義経生存説、大昔から定期的に流行りまくっていた

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こんにちは!栁澤です。
日本人が大好きな(?)牛若丸…源義経さん。冷遇され、非業の死を遂げたことで「判官びいき」の語源となった人物であり、そんな言葉の語源となってしまうくらいなので、そりゃもう、ものっすごい人気だったっていうことですね。

判官びいきとは…悲劇の英雄・源義経をえこひいきしてしまう心理。ひいては、立場の弱い人物に対して客観的・理性的判断を敢えてしないことをいう。

真田信繁や明智光秀もですが、なんていうか、生きててほしいな~って人には生存説がついて回るもの。国民総出でひいきしちゃう人気者の源義経に生存説がないわけがなく、きっと、知っている人も多いかと思います。現代日本で有名な源義経生存説と言えば「義経=チンギス・ハン説」ですな!
本気にするかどうかはともかく!

最初の「源義経生存説」は、1700年頃、江戸時代に流行ったんだそうです。
1712年に流行った説では、蝦夷に渡って、アイヌ民族の棟梁となった、とされました。
1717年に流行った説では、蝦夷に渡った後、さらに韃靼の金国(遊牧民族の国)へ渡り、そこの国王から歓迎され、平和に暮らした、とされました。
江戸時代後期、1783年になると、それがさらに発展して、「清」を建国した、とされちゃいました!ここまで来るとなんか変でござる!
そして1885年に、現在と同じ、蝦夷→韃靼→モンゴルに渡って、チンギス・ハンになり、モンゴル帝国を作った!という説が出ました。

現在の説って、結構根強かったんですね。それにしても1700年代から徐々に改変されてるっていう記録を見ちゃうと、「嘘っぽい…」って思ってしまうなぁ…💦そりゃ私だって義経が生きていたとしたら嬉しいですけどね。

チンギス・ハン説が現在でも(一応)息の根が止まっていない理由は、チンギス・ハンの資料が少ないから。モンゴルでは、チンギス・ハンの生涯は、口承によって後世に伝えられていたので、はっきり分かっていることがそう多くありませんでした。そしてそれは義経にも言えることだったんです。義経は英雄とはいえど、兄の頼朝ほどの歴史的重要人物ではありませんから、「伝説」が多く、ちゃんとした資料がそうそう多くありません。チンギス・ハンと義経、2人はちょいちょい、知られている生涯に「空白の期間」がある、妄想で補完しやすい人物だったんですね。しかも義経は牛若丸時代の五条橋でのベンケイとの出会いみたいに、エピソードに創作も多いし、京都の寺を脱走してから伊豆で頼朝と合流するまで何してたか不明って言う、謎な人生ですし。

モンゴルの人は、チンギス・ハンをとても大切にしていると思っているので、実は義経と同一人物だったかも!と言われたらどう思うんだろうなぁ。一緒にしないで!と思うのかなぁ…。
逆に考えたらどうだろう。モンゴルで大人気の英雄が、日本に渡って徳川家康になった!と言われたら(仮にですよ💦💦)…家康って人気あるなー!って思うかな…?私なら。やだ!とは思わないけれども。でもこういうのは気を付けないと、相手の国の人の気分を害してしまうこともあるから気を付けなきゃとは思いますが…💦💦私モンゴル史好きだし…バトゥとか…。

というわけで、昔から夢を見たい日本人の英雄、源義経さんだったのでした。
ではではでは!ではでは!

源義経生存説、大昔から定期的に流行りまくっていた_挿絵1
都合のいい妄想をする江戸時代蘭丸

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