武田信玄と徳川家康に、まさかの親子説

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こんにちは!!栁澤蘭丸です🙂

天草四郎と豊臣秀頼親子説…なんてありましたが、今回は「武田信玄と徳川家康親子説」に迫りたいと思います。

しかしにわかには信じられない説です…!家康の、「最も恐れた男」といえば、数がかなり多いことで有名なのですが、その中でも1位か2位なのは間違いないのが、武田信玄なのですし。もうひとりの1位候補は武田出身の真田幸村でしょうね!どっちも赤いなーって印象です。

家康と信玄のエピソードといえば、アレですよね。三方ヶ原の合戦です。武田信玄が上洛する際には、地理的に家康の領土を通る必要がありました。いざ、信玄の軍が遠江にやってきた時、家康の家臣たちは「黙って通らせよう」案を推します。なんか、信長が今川義元を桶狭間の戦いで破った時に似ていますね。家康がそんなことを意識してたかどうかは知りませんが、家康は家臣の訴えを拒否!武田軍に突っかかって行ってしまいます。家康といえば、家臣に支えられて天下人になった、家臣を大切にする人だったと思うのですが…家臣の言うことを無視してまで、出て行ってしまったんですねぇ。後ろから追いついた徳川軍は「バックアタック成功だ!」と思ったのに、何故か信玄の軍は正面を向いていて、ボロクソにやられてしまった…と言う話は有名かも。そして、命からがら城に戻った家康の例のエピソードも。『浜松城に逃げて帰ってきた家康は馬上で大の方を漏らしてしまった。それを見つけた家臣の大久保忠世に「馬上でウンコ漏らされたのですか!」と言われた家康は「違う。これは焼き味噌だ」と言った」ってやつですね。そして、その時の屈辱を忘れないために、しかめっ面した肖像画を残させた…という。

脱糞、そして絵を残させたことは、家康はやはり一味違う男だなぁという感じがするんですが、ひとつ違和感があるとしたら、家康が家臣の言うことを聞かずに打って出てしまったことでしょうか。これが、家康が信玄の子供であるという説の裏付けである、と言われています。我慢強さで知られる家康が、どうしても感情的になってしまう相手、それは実の父では?というのです。家康が信玄の実子だとしたら、武田家で育っていない以上何かワケありですから、父親に対して、わだかまりがあった???とか?また、家康が生きて浜松城に帰ってこれたのはたまたまではなく、信玄が手心を加えたのではないか?とも。

他にも、家康が武田家が滅亡した後、保科氏、岡部氏、依田氏など、旧武田家臣を多く召し上げていたり、信玄の次女を保護していたり、治水工事や金山開発については武田領でとられた方法が参考にされたり、赤備えを真似したり(まぁこれはいろんな武将がしているけど)、日光東照宮には武田家の家紋(花菱)が使われていたり…というのが、その根拠だそうです。それにしても日光東照宮っていろんな人の家紋使われまくりじゃないでしょうか??明智さんのも使われてるって話があったりしますよね(実はこれは桔梗紋ではないので間違いという話も…)。

信玄は1521年生まれ、家康は1543年生まれで、年の差が22。親子には丁度いい年の差だったりしますし、面白い説だなぁとは思いますが。全然そんなイメージがなさすぎて、先入観からこんな説思いつくことが困難な気がします。気づいた人の頭はきっと柔らかいのだ。

実際どうだったか…それは、未来永劫誰にもわからないんでしょうね、うん。多分違うんだろうけど(えー)。
栁澤蘭丸でした⭐️ではでは!!

武田信玄と徳川家康に、まさかの親子説_挿絵1

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