武将が大好きな、俳聖・松尾芭蕉

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こんにちは!栁澤蘭丸です。

みなさんもよく知っている「松尾芭蕉」。江戸時代のレジェンド俳諧師です。日本史ではマスト覚える人物。国語の授業でも、いくつかその俳句を目にしたかもしれません。

古池や かわずとびこむ 水の音
これは、読んで字のまんま、古い池にかわず(カエル)が飛び込んだ音が響きました…という句ですが、松尾芭蕉のすごいところは、それまでの俳句の世界では「カエルと言えば鳴き声が美しいもの」という常識から外れて、カエルが池に飛び込んだ音すらも聞こえるほど静かであるという表現に使ったところ(らしい)です!季語はかわずで、春の句です。

あとは…
五月雨をあつめて早し最上川
これは松尾芭蕉が山形県の最上川を下ろうとして、適した天候になるのを待っていた時に詠んだ句。何が早いのかというと、川の流れです。「五月雨」は、梅雨の時期の季語です。この最上川の句、実は後から「早し」に変更されたんだそうです。最初は「五月雨をあつめて涼し」だったのですが…川を下ろうと待っている時には「涼しそう」って思ったんだけど実際下ってみたら「早し」にしたくなったみたいで。最上川下りはなかなかの激流で、現在も「最上川激流全国いかだ下り選手権」が開催されるような川でした。松尾芭蕉は、川下りで「流れがはやい!!」と思ったのかも。しかし五月雨というのは、長々と降る梅雨の雨のことなので、今の感覚だと涼しくも早くもないような気もする…けど詠まれた背景を聞くと、松尾芭蕉の川下りが大変だったんだなぁという感想を持つかもしれない…。

そしてこれ!
夏草や つわものどもが ゆめのあと
人間の儚さを詠ったと言われるこの句ですが、どこで詠んだのかが重要でした。これは奥州藤原氏が栄えた平泉で詠まれた句で、奥の細道の終点だそうです。芭蕉はどうやら源平の物語が好きだったようです。意味は、「夏草だけが茂っている。ここはかつて、兵(つわもの)たちが栄華をほこった場所だったけど一夜の夢のように消えてしまった」みたいな感じでしょうか。ここ、源義経が、兄頼朝に追われて自害をした城跡なのでした。
松尾芭蕉は平和な江戸時代に生まれた人なので、戦いで散っていった武将にロマンを感じていたのではないかと言われています。今も平和な時代ですけど、戦国時代が好きな人は多いですよね。レキジョなる女性まで生み出していますし。平和だなぁ。
この句を詠んだだけでは「武将大好き」とまで言えるかなぁという感じですがこの句を詠んだ時の芭蕉の様子を弟子が記していて、「義経が忠臣と共にここにあった城で戦ったのに、彼の功名もはかなく消えてしまった」と、気が済むまで泣いてたそうです。うん。相当奥州藤原氏と義経好きじゃないでしょうか。

極めつけは、木曽義仲について詠んだ句です。
義仲の 寝覚めの山か 月悲し
もう義仲って堂々と句に入れちゃっていますね。木曽義仲は、頼朝・義経兄弟のいとこにあたる武将で、彼は頼朝の命令により義経に討たれてしまいます。芭蕉が一番お気に入りだったのはこの義仲でした。この句は、奥の細道の道中、福井県敦賀市で詠まれた句です。敦賀市の「燧が山(ひうちがやま)」は、木曽義仲の城「燧が城(ひうちがじょう)」があった場所です。ここで、芭蕉は「ああ、木曽義仲も夜中に目が覚めた時にこのような月を見たのだろうか」という意味の句を詠んでます。今で言うと、聖地巡礼のような感じなんでしょうか。川中島古戦場史跡公園に行って、ここで武田軍と上杉軍が!とか思ったり、善光寺に行って信玄公と謙信公の位牌が並んでるのを見て、死んだ後も一緒か…とか思ったり、躑躅ヶ崎館の跡である武田神社に行って「信玄公のトイレ、復元して欲しい」と思ったりする私は、気持ちが分かると言えば分かるんですけど、私程度と同じじゃないですよねぇ…大変な旅をしてでも行こうと思ったところなんだし。

ちなみに松尾芭蕉は死ぬ間際に「木曽義仲のお墓のそばに埋めて欲しい!」と言ったので、お墓は木曽義仲と同じ「義仲寺(ぎちゅうじ)」にあります。病気を得た松尾芭蕉が亡くなった地は大坂ですが、滋賀の義仲寺にお墓を立てて欲しいとは。ガチ勢です。

栁澤でした!ではではでは~。

武将が大好きな、俳聖・松尾芭蕉_挿絵1

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