西洋と日本では微妙に意味が違う「火中の栗を拾う」行為

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こんにちは!栁澤です。

火中の栗を拾うという言葉は、「敢えて危険なことに果敢に挑む」というような時に使われたりしますが、厳密に言えば「他人の利益(←栗は他の人が食べる)のために、危険な仕事をする」という感じみたいですね。

このことわざ、西洋版もあります。…というよりは西洋が発祥のことわざなんなのです!
フランス人のラ・フォンテーヌという人が編纂した「イソップ物語」の中に出てくるお話の中に、元になってるおとぎ話が収録されています。
ちなみにラ・フォンテーヌさんは格言残し得意マンで、「全ての道はローマに通ず」や「金の卵」となどの日本でも有名な言葉を残しています。その中のひとつが、この「火中の栗を拾う」という言葉ってことですね。

「火中の栗を拾う」の元になったおとぎ話の題名は「猿と猫」といいます。うーん猿も猫も悪そうなイメージですがどっちが犠牲者なんでしょうか…。内容はこう!!!

悪賢い猿にそそのかされた猫が、ぱちぱち燃えてる火の中にある栗を拾いました。
んで、猫がやけどを負いながらも拾った栗は、全て猿が食べました。おしまい。

シンプル。
西洋では、この猫は「愚か者」の象徴とされます。口先三寸に騙されて、他人の手足をなったあげくに、自分には損しかないのが、この物語の猫。なので、猫のようになっちゃダメなのです。

が、日本には、「粉骨砕身」などの言葉がある通り、「自分の身を犠牲にすること」を良いことと捉える傾向があります。また、「玉砕」なども美しい散り様とされる場合もあります。ダメもとでも一生懸命信念に基づいて行動したものはアホではない。立派な者だ!という考え方があるのでござる…。

すると、この「火中の栗を拾う」も、「自分が犠牲になっても、みんなの利益になるならば」という時に使われることがあります。「みんなのため、私が火中の栗を拾う!」みたいな??

そんな文化の違いもあり、日本では必ずしも「愚か者」の所業と言い切れない「火中の栗を拾う」という行為なのですが…。

本当なら、誰も「火中の」栗を拾う羽目にならないのが理想であることを忘れてはいけない!というのが西洋風の考え。猫は火中の栗をやけどするような方法で拾うことになってしまいましたが、それがそもそもダメなのだという事なのです…。その火が焚火なら、蹴飛ばして消しちゃえばいいし、囲炉裏なら火箸があるだろう、それを使えよ!という事が、真に大事なのではないか?というわけですね。

日本だととりあえず「自己犠牲」を払った人は素晴らしいってことになるので、知恵を絞ってそもそも「犠牲」が出ないようにするという工夫が少し足りない場合があるかもしれません。

日本人は、くれぐれも、「ここで自分が犠牲になればみんなが助かる…」みたいな気持ちに酔わないようにしなければいけません!自分が犠牲になってみんなが助かってもグローバル目線だと愚か者の所業にされてしまうから!ナイチンゲールだって言っています。自己犠牲による奉仕は続くもんも続かなくなる、余計なお世話なんだ!!と。
誰も犠牲にならない方法を必死に探すことこそが大切ということをこの「火中の栗」事件は教えてくれている…のかも…しれない!

栁澤でした!ではではぁー!

西洋と日本では微妙に意味が違う「火中の栗を拾う」行為_挿絵1

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