幻の都「長岡京」って何?

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こんにちは!栁澤蘭丸です。

なんと美しい奈良の都「平城京」(710年)、鳴くよウグイス「平安京」(794年)!年号の覚えやすさだったら日本史で5本の指にいはいるのではないかというこの遷都の年号。他には…やっぱ、イチゴパンツ。1582年。天正10年6月、本能寺の変!1185年、いいはこ作ろう鎌倉幕府とか。「いい国作ろう」がバッチリあってて良かったんですけど、1185年にはもう幕府あったんだからしょうがないですよね~。

というわけで。遷都したら、年号を覚えないといけないのが日本史だった。だけど…よく見てください、奈良の都平城京から京都の平安京に移るまで、たったの84年しか経ってませんよ!?今の日本で100年も経たないうちに遷都してたら大変ですけど…!?
この頃の「都」って、今よりずっと都市計画バッチリだったんですね。東西南北に門を作って、帝がいる場所はここでー、って、きっちりと最初から計画して作ってたのです。今みたいに、昔からの道路がうねうねしてて土地がないよーみたいなことは無い。まっさらな土地に「よっしゃ作ろう」って作っていたのですね。しかも大きさも別に「23区」くらいあるわけじゃないし。平城京は南北5キロ、東西4キロ。全部人力だから面倒っちゃ面倒だけど、84年も経てば遷都もアリなのかな~…

なーんて思いつつ、実は、遷都は「平城京」から「平安京」に、つるーんと行われたわけではありませんでした…84年、短いと思ったのに、さらに間に何か挟まってんじゃん…!その名も「長岡京」。年号784年です。ちょうど、鳴くよの10年前ですね。

長岡京は、現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区にまたがって存在していました。元々、桓武天皇は「平安京」ではなく「長岡京」に遷都しようと思っていたのです。でも何でそのあとすぐに平安京にさらに遷都してしまったのか…。いくらそんなに大きくないとは言っても人力だし、せっかく作ってた都をたった10年で見限るなんて、桓武天皇的に、絶対に無視できない大きな理由があったはずですよね。が、しかし…このあたりのことは日本史ではよく習いません。テストにも出ない程度の感じです。高校で日本史とった人すら「ああ、何か長岡京って資料集に書いてあったかも」程度だと思います。

考古学の世界では、この遷都の理由はどう思われているんでしょうか?調べたところによると、桓武天皇は「祟りから逃れるために長岡京を捨てた」というのが定説になっているそうです。

祟り…?!?

日本三大怨霊と言えば、「菅原道真公」「崇徳天皇」そして「平将門公」でピタっときてるんですが、遷都を行わせるほどの怨霊が実はいた…!?隠しボスみたいですが、その怨霊とは一体どなたなのでしょうか?

それは、桓武天皇の弟である「早良親王」という方。その時の皇太子殿下です。何故桓武天皇は弟に祟られることになってしまったのか、というと…。
785年、長岡京の建設責任者である「藤原種継」という人が、遷都反対派によって暗殺されてしまうのですが、桓武天皇の捜査によると(?)その首謀者の一人に早良親王が含まれていたのです。怒った桓武天皇は相良親王から皇太子の立場を取り上げて、淡路島に島流しにしてしまいます!!しかし、早良親王は一貫して無罪を主張します。淡路島流しになると決まってしまい、兄が自分のことをちっとも信じてくれないと知って、それでもやってない!と、ハンガーストライキに出ます。そしてそのまま島に着く前に死んでしまったのです…。ハンストって…死んでしまっても良いのだろうか…。しかし、無実じゃなければ死ぬまで食べないなんてことは出来ないですよね。(でも、わざとご飯を食べさせずに殺した説もある。これは祟られても仕方ない)

早良親王が亡くなってから、桓武天皇の周りではおかしなことが起こり始めたそうです。相良親王の次に皇太子になった人が死んだり、桓武天皇の奥さんが死んだり、桓武天皇と相良親王の生母が死んだり、天変地異(洪水)が起こったり、さらには、土の雨が降ったり、超常現象まで起こり始めたので桓武天皇はノイローゼになってしまいます。一生懸命、早良親王の怒りを鎮めようと、度々供養の儀式を行いましたが、効果が無く、桓武天皇は遷都を余儀なくされた……とされているんです。だから、長岡京はたったの10年しか使われなかったのですね。
ただし、早良親王の祟りの真っただ中であろう790年頃にも、まだ長岡京の建築は続いていたので、ノイローゼ説が本当に正しいのかは謎だそうです。

それにしても長岡京もったいない…!!

蘭丸でした!ではでは~

幻の都「長岡京」って何?_挿絵1

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