諺「十で神童十五で才子二十すぎれば只の人」について考えてみた

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皆さんこんにちは。
相変わらず突然変なことを考える伊達あずさです。

皆さんは「十で神童十五で才子二十すぎれば只の人」っていう諺を知ってますか?
ちなみに「神童」と言うのは人並み外れた才能をもった子どもという意味で、「才子」と言うのは才能や知恵に恵まれた人という意味です。
要するに、子供の頃は天才だ!って周囲から思われていたような人でも、成長して大人になってみると結構普通になっているという意味の諺ってことですね。

しかし、不思議ではありませんか?
子どもの頃には目立たなかった人が大人になって大成するというのは何となくしっくりくるのですが、小さい頃に天才とまで言われた人が大人になって急に才能を失うなんて不思議過ぎると思うのです。
とは言え、諺っていうのは古来よりの経験則によるもののはずですから、統計的にそういうことになっちゃってることが多いはず。
なので、私なりにどうしてそんなことになってしまうのかちょっと考えてみました。

なんで私が急にそんなことを考え始めてしまったのかというと、蘭丸さんが「昔、自分は神童と呼ばれていた」と言ったので、何となく気になってたんですよね・・・

さて、では考えてみましょう。

1. 早熟説

wikiでこの諺について調べるとでてきたりする説ですね。
物凄く早熟タイプだったが故に、「子どもの割には上手」=「天才」と呼ばれていただけで、才能的には普通だったという話ですね。

諺「十で神童十五で才子二十すぎれば只の人」について考えてみた_挿絵1
グラフにするとこんな感じってことでしょうか?
これでいくと、10才の時に18才の人と同等の成果を出せるってことになるわけですから、確かに神童と呼べるかもしれませんね。
スポーツで小学生4年生が高校3年生を打ち負かしているとか考えたらかなり驚異的ですよね。

でも、これって要するに物覚えがとても早いってことですよね。
確かに実力の最大値は普通かもしれないけど、物凄い速さで吸収してそこまで達するわけですから、それって只の人とは言えなくないですか?

そうですね、例えば会社での仕事に例えるならば、どんなに新しい仕事を任せても、すぐにある程度の仕上がりまで短期間で持っていく人材。
・・・なんかこれ結構理想的な人材だったりしませんか?
確かに天才とは呼ばれないにしても、優秀とは言われそう。

2. 子どもと大人では成果の定義に違いがある説

1の早熟説だと只の人にはならなそうだったので、私がふと考えたのがこの「子どもと大人では成果の定義に違いがある説」です。
どういうことかといいますと・・・子どもの頃ってどっちかって言うと教育という形で目標から手段、環境に至るまで全て与えられている事が多くなかったですか?
要するに全員で同じ道を一斉に走らされて優劣が付けられていたとでもいいましょうか。

ですが、大人になるにつれ成果として求められているものが変わっている気がするのです。
「おまえは言われないと何も出来ないのか!」って上司が会社で叱責するシチュエーションに良く遭遇したりしませんか?
成長して社会人となると、目標だけは与えられますが、その目標達成に至る手段は自由です。
よって、他の人が思いもつかないような独創的、且つ有効な方法で目標を華麗に達成する事も可能です。
これぞまさに天才ですね。

が、しかし、子どもの頃天才と呼ばれていた人が必ずしもそうできるかというと、そうはいかないかもしれません。
決められた目標と決められた手段で競えば他の人より成果をあげられるかも知れませんが、手段そのものが自由となってしまった場合は、必ずしも他の人より成果をあげられなくなってしまうのかもしれません。
むしろ、「目標から手段まで全てが決められていることに一切の疑問を持たず、その環境内で成果を上げることに傾倒できる」が故に他より優れていた可能性が高いので、手段そのものまで自分で決めろと言われてしまうと、自分の手段に自信が持てずに気が散ってしまい、実力が発揮できなくなってしまうかもしれません。
もちろん、言われたことだけをきっちりこなす人材というのも、社会にとっては不可欠な存在ではありますが、残念ながら天才と呼ばれることは少ないでしょうね。

このようなことから、「十で神童十五で才子二十すぎれば只の人」という諺が成り立つのではないかな。と思った次第です。
でも、私の理論でいうと、全ての人が同一のルール内で成果を競うスポーツ等の世界では、神童は大人になっても天才の可能性が、他よりも高くなるかもしれませんね。

そう考えると・・・子どもの頃の教育ってどうなのでしょうね。
大人になって何をしようかと考えた時の選択肢を広げるために幅広い基礎を教育として画一的に教えこむというのは確かに平均値上昇のためには重要ですが、もしかすると子どもの頃には持っていたかもしれない独創性を潰してしまう可能性もあるのかもしれませんね。
しかも、その失った独創性を大人になってから急に求められるというのも皮肉な話です。

原始時代から比べて、現代社会は価値が多様化したお陰で、さまざまな才能を持った人が社会から評価される時代です。
なので、幸か不幸か少子化によって子ども1人に与えられる教育の質は向上しているわけですから、もう少し自由度がある教育の方法についても考えていかなければならないのかもしれませんね。
学生時代から社会人になったときのギャップって精神的に結構辛いですからね。
特に成果主義という古来の日本の社会思想に相反する成果手法への転換期である今は特に・・・

・・・なんか気づけば凄いシリアスな話になってしまいましたね。
あ、別に蘭丸さんが現在只の人になってしまったという意味では無いですからね!
あしからず!

諺「十で神童十五で才子二十すぎれば只の人」について考えてみた_挿絵1

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