織田信長の正室「濃姫」はどこへ行った?

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こんにちは!蘭丸です。

織田信長の正室と言えば「濃姫」または「帰蝶(同じ人を表してます)」なのは有名ですね。この「濃」は、地名「美濃(みの)」の「濃」で、つまりは「美濃の姫」という意味です。いつものことながら戦国時代の女性の本名は不明なことが多いですねぇ。

この濃姫、登場の時はいろんなエピソードを持っています。そもそも、信長のいた「尾張」と敵対関係にあった、美濃地方を支配していた斎藤道三の娘さん…というところからドラマチックです。斎藤道三といえば、やり手で有名。濃姫を嫁に出すときも、「信長がアホだったらこの刀で刺してしまいなさい」と言って、小さな刀を授けたと言われていますし、なんか不仲だったとも言われています。基本的に信長は、「吉乃」という側室を最も愛していたと言われていて、子供も濃姫との間にはいませんが(女児については不明ですが…)、吉乃さんとの間には3人もうけています。この中に、後の嫡男「信忠」もいます。

うーん。吉乃さんが1556年に信長の側室になったのに対し、濃姫が信長の正室になったのは1549年です。結婚後7年もしたらなんか熱も冷めるのかもしれませんけど、あんまりおもしろくない状況ではありそうですよね。

ただこの頃の濃姫がどうしていたかは、ぜんっぜん確かな資料がないのです!死亡説、離縁説、信長による暗殺説まであります(◎_◎;)←もともと敵国の姫だし、友好関係を結ぶための婚姻だったため、美濃が手に入ってしまってからは濃姫には特に人質的な価値はなかったためなんですね…。
輿入れの話が有名すぎて、いろんなゲームでは信長のパートナーとして登場することが多いですが、実際は輿入れ後どうなったのか、実のところ分からない濃姫なのです…。吉乃さんが愛されていたという記録は残っているので濃姫が斎藤道三の娘ではなく、エピソードが無かったら多分、どのゲームでも信長の妻は「吉乃」になってた可能性が大かも…。しかも「吉乃」は、普通は正妻の呼び方である「御台」と書かれていることもしばしばあって、本当に正妻同様のような扱いを受けていたようなのです。

信長の最期といえば天正10年6月の本能寺の変!敵は本能寺にありってやつですね。「信長公記(しんちょうこうき…信長の一代記みたいなもの)」の作者、太田牛一さんが地道に調査して(?)当時の本能寺の生き残りに聞き取りをした結果、その時の本能寺には「おのう」という女性が一緒にいたということは分かったのですが、この女性は単に名前が被っているだけで「正室」という記載がありません。なので、この「おのう」さんが濃姫ということはちょっと考えづらい状況です。

戦国時代の女性は「寧々」さんが「北政所」さんになってたり、「瀬名姫」が「築山殿」になってたり、呼ばれ方が二転三転することもあるので、信長周りの女性で「安土殿」というのが濃姫のことじゃないか!?とか「おなへの方」というのが実は濃姫だったりするんじゃ!?とか色々考えられてはいるのですが、決定的な資料が見つからないため結局はどうなったか謎です。

ゲームや漫画では大活躍(?)の濃姫ですが、意外ですよねぇ。でも敵国に単身乗り込むような形でお嫁に行って、不仲だったなんてなんか悲しいので幸せに生きてて(?)欲しいですけどね!ていうか誰か吉乃さんのことも思い出してあげて…!

ではではでは!ではでは~

織田信長の正室「濃姫」はどこへ行った?_挿絵1

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