宮本武蔵ってどんな人だったの?~就職氷河期を生きた苦労人合理主義者~

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こんにちは!栁澤蘭丸です。

宮本武蔵の一生どんなんかみなさんは知っていますでしょうか?佐々木小次郎は「武蔵と対決して負けた」ことしか有名じゃないですが、それと同様に武蔵も「佐々木小次郎に勝った」という話しかそういえば知らないなっていう感じじゃないでしょうか…もちろんドラマとか色々観ていれば違いますけれども。

というわけで今日は宮本武蔵のお話をしたいと思います。

宮本武蔵が生まれたのは「天正十年(頃)」…てんしょうじゅうねん、といえば?何といっても本能寺の変。こう聞くとけっこう戦国時代も後期の人ということが分かりますね。

武蔵には武将というイメージはないかもしれませんが実は関ケ原の合戦に宇喜多秀家軍として従軍してます(西軍)。

その後の武蔵は、兵法者(武芸に精通している人)として名を上げるために有名な「吉岡清十郎」に勝負を挑みます。吉岡清十郎は有名ですよね。京都の武芸の名門です。ドラマなどを見た場合この人が出てこないことはありませんね!この人は名前が爽やかだからなのか、大体イケメンに描かれますね。何故か武蔵の決闘相手はイケメンが多いです。

清十郎をワンパンで倒した武蔵は、この後、吉岡一家につけ狙われるという運命に。兄の復讐に燃える弟もワンパンで倒しましたが、清十郎の息子の又七郎との決闘の時は、吉岡一門の弟子を山盛り呼ばれてしまうことになりました…さすがの武蔵も「その人数~…?」とひいてしまい、ふと通りかかった八大神社(京都市左京区)で、神頼みでもしちゃおっかなと考えます…がここで名言(?)が飛び出します!
普段から信心深くお参りしていたわけじゃないのに、お願い事がある時だけお参りして、そんで神様が願い事聞いてくれるわけがないやん。実力しか頼れるものはない!

確かに…!現代人もよく覚えておいたほうが良い名言だ!
というわけで武蔵は生き残るために己を奮い立たせて、清十郎の息子さんとの決闘に臨みます。結果、武蔵は決闘の場で木の影に隠れて待ち伏せ、清十郎の息子が現れたところを奇襲で葬り、混乱に陥る吉岡一門の弟子どもを蹴散らして難を逃れます。いいの、奇襲でも。武蔵は兵法者だから。

そんなわけで、名門・吉岡家を壊滅に陥れた武蔵。年齢は20代前半ですが、就職しようにもすでに戦が終わった世の中だったのでどの大名からもお声がかかりません…。自ら就職活動ならぬ士官活動をするも全然採用に至りません。その頃は、改易の嵐が吹き荒れていましたので、無職になってしまったお侍さんが山盛りいたからなのです。

武蔵は島原の乱に参加したり地味な活動を続け、佐々木さんも倒し、最後には熊本で仕官することに成功します…が、もう、マジ、就職活動…じゃない士官活動はコリゴリという気分になってしまったようで、息子(養子)には、「剣術なんて一生懸命やらんでいい」という親になったみたいです。そりゃね。戦がないと、剣だけでは…。お侍さんの仕事も政治の補佐などが主なお仕事になっていくわけですもんね。

この頃の親の考え方としては「自分の跡を継いでほしい」っていうのが普通だと思うのですが武蔵はあっさりと自分が極めようとしていた(?)兵法へのこだわりを捨てました。晩年に書いた「五輪の書」でも、「武士っていうのは剣だけ極めてればいいものじゃない」とか「色んなことを学んで分かることもあるよ」とか書いています。

頑固に何かにとらわれない発想やら、ここぞっていう時に神頼みせずに自分でなんとかしようっていうメンタルの強さが大切なんですかねぇ。

無双の強さを誇って華々しい人生を送っていたようなイメージの武蔵ですが、実は若い頃はヤンチャのし過ぎで危機一髪になってたり、就職活動で苦労したり、大変だったんですねぇ。ちょっと親しみがわきますがそれと同時にやっぱり偉い人だなという気持ちにもなりますね。何かに躓いている人は、パワースポットに行くのもいいけど、武蔵みたいに卑怯でも何でもいいから切り抜けようとしたり、こだわりを捨てると道が拓けるのかもしれませんねぇ。

蘭丸でした!では またー

宮本武蔵ってどんな人だったの?~就職氷河期を生きた苦労人合理主義者~_挿絵1

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