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皆さんこんにちは。
真の自己中に憧れる伊達あずさです。
インターネットで調べ物をしていると、結構色々な人の文章が目に入ります。
そんな中で最近気になったのが「自己中」という言葉です。
「自己中な人が居ます」っていうのはもう凄まじい警告に等しい言葉なのですよね。
誰かに「お前自己中だよ」なんて言われようものなら、それはもう死刑宣告を受けるぐらいショックなもの。
そんな、巷では嫌われ者の蔑称と化している自己中ですが、自己中って本当にそんなに非難されるべきことなのでしょうか?
自己中とは自己中心的な人の略ですね。うん。
そもそも、自己中心的ってどういう意味なのでしょう。
だそうです。ふむふむ。
何でも自分を中心に考えて、他人の考えを読めない人ってことですね。
うーん・・・でも、そもそも、他人の考えを100%読める人なんて居るのでしょうか?
んーん、むしろ10%すら読めているの?
ってことは、自己中の対義語はエスパーってことになっちゃいますね・・・
私達が他人のことを考える時、大抵、自分が相手の立場だったなら・・・と考えますよね?
でも、それって既に自己中心的な考えになっちゃってると思うんです。
だって、自分を相手の立場に置き換えてる時点で、既に自分を物事の中心に置いちゃってますよね。
そこから生み出される「他人の考え」は、結局の所、立場が変わった自分の考えでしかないわけです。
じゃ~皆自己中じゃん!!それなのに何故人は他人を自己中と非難するのでしょう。
他人を自己中と非難する時、恐らくその人にとって何らかの不利益が生じているのでしょう。
当然他人を非難するわけですから、自分に何らかの正義が無ければそのようなことはできません。
きっと、その人を自己中と非難する自分に正義があると確信して言っているはず。
しかし、その正義って本当に絶対的な正義なのでしょうか。
少なくても、自己中と非難される側の人にとっての正義とは異なっているはずです。
それなのに非難するということは、その人の正義には考えが及ばず(あるいは故意に無視して)、自分の正義で全てを推し測って非難していることになりますね。
そうなると他人を自己中と非難してる人の方こそ、確実に自己中ってことになっちゃいますね。
まあでも、タイトルの通り、私は自己中って別に悪い物ではないと思うんですよね。
他人の考え何て言われなければわからないし、言われたって100%わかるものではありません。
それなのに、他人の考えを分かった気になって行動すれば、必要の無い自己犠牲(我慢)を生んでしまうのです。
自己犠牲というのは物凄い量の精神力を必要とします。
そもそも、自分が的外れな自己犠牲を行った場合、感謝どころか非難されてしまう恐れすらあります。
仮に自己犠牲が成功して感謝されたとしても、自分が自己犠牲を行った代償として、自分と同等と思われる程度の自己犠牲を他人にも当然のように望んでしまうのです。
問題なのは、相手の自己犠牲の判断基準が全て自分にあるというところなんですよね。
いくら相手が同様に自己犠牲を返してくれていたとしても、価値観が異なる他人の自己犠牲というのは気づきにくいため、相手がこれ見よがしに分かりやすい自己犠牲を払ってくれなければ、「どうして私ばかり・・・」と相手に恨みが募ってしまうのです。
完全に理解する事が出来ない相手の考えを分かったようなつもりになって、勝手に自己犠牲を放つのは無駄にリスクが高いのです。
そもそも、自己中と非難される人の多くは、自分の思ったことを物怖じせずに言える人だと思うんです。
そして、自己中と非難する人の多くは、普段は自分の思ったことを言えず、自己犠牲を続けた結果、精神力が尽きてしまった人だと思うのです。
要するに自分が出来ないことを平気でするから悔しくて自己中って非難しちゃってるんですよね。きっと。
でも、自分の想いを口にするという手間を惜しんでるくせに、自分のことを理解しろというのはちょっと傲慢ではないでしょうか。
というか、自己中と相手を罵っている時点で、自分も相手のことを理解できてないことは明らかなわけですから。
皆がもっと自己中だということを自覚すれば、口にだして他人に自分の想いを伝える必要性も理解できるはず。
そうすれば、空気を読むなんていう怪しげな術を使わずとも、より効率的に、より確実に相手が何を望んでいるのかわかるようになるはずなんです。
まあ・・・日本人に対して「自己中に振る舞え!」っていうのは言うほど簡単なことではないのですが、それでも他人を自己中!と非難して排除するのは如何なものかと思うのです。
人間が物事を自分中心に考えてしまうのは仕方ありません。他の人の考えが100%分からないのも仕方ありません。
しかし、相手が発信した意見を全く考慮せず、自分の正義のみを追求し、他人の正義を一方的に悪と決めつけ、攻撃する・・・それは諍いの元ですね。
自分を中心として考えること自体が問題なのではなく、他人の信念を故意に排除してしまうことこそが真の問題なのだと思うのです。
自分と考えが違う人間と遭遇した時、自分の想いをぶつけ合いながらも、相手の存在を否定せずに議論できるというのが理想ですが、両者が自覚ある自己中でなければ、なかなか平等な議論にはなりません。
より思想が異なり、考えが読みづらい世界の人と簡単に繋がってしまう現代社会においては、日本人も「自己中になれない(自己中の自覚が持てない)」と言ってばかりもいられないかもしれませんね。
Studio POPPOのプログラム兼システム担当です。
ウォーキング・デッド大好き!ダリルかっこいいよっ!主食はキノコです。