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皆さんこんにちは。
コスモスな文章よりもカオスな文章の方が遥かに難しい伊達あずさです。
脈絡が無い話を考える方がどう考えても苦手です。
赤龍王、前回まで
横領中の王陵のアルハラでヴァルハラ行きにされかけた私は蕭何の紹介で亭長として丁重に迎えられました。
しかし、咸陽の法が寛容ではなかったため、全てを諦め「山賊王に私はなる!」と声高に宣言したのだが・・・
そんなこんなで一晩にして亭長から山賊長となった私。そこへ別の山賊の一団がやってきました。
この山賊を率いているのはソショウ(この人知らない・・・)という人物で、沛の町の乗っ取り計画を持ち掛けてきました。
しかし、「沛の町には指一本触れさせねぇ!」と怒れる私はこのソショウを一刀両断。こんなちょい役を私が知らないのも無理はありません。
指導者を失ったソショウの部下達はすっかり怖じ気づいてしまい、そのまま私の軍門に下ったのでした。
こうして山賊達が画策していた襲撃計画を未然に防いだ私達劉邦党の噂は沛の町中にたちまち広がっていきました。
そんなある日、劉邦党の根城に沛の町からの使者がやってきます。使者によると沛を救った功績により、我が劉邦党を町の守備軍として迎え入れてくれるそうです。ちなみにこれは蕭何の差し金みたいですね。本当に彼は仕事が早いなぁ・・・
劉邦党の仲間達を引き連れて沛へと戻ってきました。
あと少しで沛に着くといったところで、元ソショウ率いる山賊の本体と思われる集団と鉢合わせになってしまいました。ざっと見積もって、私達の倍は頭数がいそうです。
秦の兵士が相手だった時は何の助けにもならなかった樊噲ですが、山賊相手なら100から200人はいけるらしいです。多分「特攻:山賊」のスキルでももってるのでしょう。
そんなわけで、山賊との戦いは樊噲1人に任せ、私は遠くから高みの見物でもさせてもらうことにします。
あまりの樊噲の奮闘ぶりに仲間の山賊達の士気も徐々に上がっていきました。
十分に味方の士気が上がったところで、樊噲に続けとばかりに仲間を率いて敵軍へと突っ込むと出鼻をくじかれた敵の山賊達は成すすべもなく逃げていきました。
敵を追い払うと蕭何が出迎えに来てくれました。
すると突然虞からもらった首飾りを見た張良なる人物が訳の分からないことをいいだしましたよ?
そしてすぐさま私の仲間に加わりたいと言ってきました。
ちなみにこの張良って人・・・めっちゃ有名人ですよ。見知らぬ老人が理不尽に川に投げ込んだ靴を嫌な顔1つせず3回も拾ってきた忍耐力に優れた人です。別の言い方をするとすれば、項羽と劉邦の世界で多分知力100ですよ!
そんな知力100の張良曰く、虞からもらったこの首飾りは国を統治し民を安らげる宿命を背負った赤帝の証なのだそうです。知力100の軍師からの進言は外れることが無いため、それで間違いないのでしょう。
こうして、希代の名軍師として後の世に名を残した張良が加わったのである。
だからこのナレーションなに!?
紀元前210年の夏、5回目となる巡行中に始皇帝がお亡くなりになりました。
宦官の趙高は始皇帝の末の子となる胡亥を皇帝に立て、長男の扶蘇を殺害すると胡亥を裏で操り秦の実権を握るようになりました。
一方、呉では項梁が兵を挙げたことで「例え楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう」という言葉通りに各地に散っていた反秦の志を持つ同士達が集まり始めました。そして、何時しか項梁軍は十数万もの大軍となってしまいました。
やがて彭城に入った項梁は各地で反秦の旗を掲げている王や将軍らに檄を飛ばします。
今や反秦の中心勢力となった項梁からの檄は、そこそこの勢力となった私達の所にも届きました。
檄には「我が項梁軍にはせ参じよ」と書かれています。
知力100の張良は項梁軍との合流をお勧めしているようです。ただ、素直にこのまま行ったのではどこかの将軍の下につけられ最前線に送り込まれ犬死にすることになってしまうだろうから、合流するにしても劉邦党としての格を上げてからのほうが良いだろうと進言してきます。
そして、格を上げる具体策として張良が進言してきたのは碭城の攻略でした。
しかし、樊噲によると碭城には3万もの秦兵が居るらしいです。対する私達は沛を守備している王陵の手勢を含めたとしても2000人程度です。その上攻城戦ですからねぇ・・・
すると、それを聞いた張良が「2000人も要りません。500人で落としてごらんに入れましょう」とか言い出しちゃいました。
一度でいいから私もそういうこと言ってみたいです。
そんなわけで、碭城の攻略に移ります。
張良は碭城の兵が夜襲に対して打って出てこないことを予め知っていたため、藁人形をつかってこちらの兵数を誤魔化し、2日に渡って碭城を攻め敵を眠らせませんでした。
その後、わざと藁人形を放置したまま引き上げることで劉邦軍の殆どが偽装兵だったと敵に思わせ油断させたところで城内に忍び込み所かまわず火を放ちました。すると油断していた秦の兵士達は混乱し同士打ちを始めたためあっさり碭城は落ちました。
と言った感じの結果になったんですけど、本当にそんなうまくいくものなんですかねぇ・・・
野戦に打って出ないということであれば、敵は全力で守りに注力しているのでしょうけど、3万もの兵を全部使ってまで警戒しなきゃいけいないほどに碭城って巨大だったのでしょうか。
例えばですけど、3万の兵を城壁にそって1m間隔で配備させた場合、30kmの距離を守れることになります。碭城の城壁が正方形だとした場合、1辺あたり7.5kmぐらいでしょうか。比較的形式が近い三国志の県城ではおよそ1km2の面積で人口が2800人程度だったらしいですから、その56倍以上の面積に相当してそうな碭城の人口は15万人を越えてきそうです。この人口を三国志で例えるならば洛陽に次ぐ都として知られる長安より多いことになっちゃうのですが、碭県ってそんな巨大な都市だったの!?
常に3万の兵を全て使わなければ守れないほど碭城が広大で、ちょっと攻めたぐらいで城の警戒が疎かになるほど兵が疲弊するんだとしたら、平時の警戒だってきっと穴だらけでしょうから、何もわざわざ兵を偽装してまで攻めたりせずとも、奇襲して火をかけられたんじゃないかな?
別に自軍にとってラッキーなことなんだから、素直に喜べばいいのですけど、勝って兜の緒を締めよですよ。うん。
そんなこんなで、見事劉邦党改め劉邦軍へと格をあげた私達は当初の予定通り彭城へとはせ参じたわけですが・・・続きは次回です。
Studio POPPOのプログラム兼システム担当です。
ウォーキング・デッド大好き!ダリルかっこいいよっ!主食はキノコです。