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皆さんは最近幸せだな~って感じましたか?
何気なくテレビを見ていると、嫌な気分になったり、不安になったりするようなニュースが多いような感じがしちゃいます。
もちろん、ニュースで幸せを感じることは少ないので、そういった偏った感覚になっているだけかもしれませんけどね。
ちなみに、日本では、国民誰しもが「自分の幸福を追求する権利」を持っているそうです(日本国憲法第13条)。
確かにそうですよね。自分が自分の幸せを追求しなかったらどうするのさって話ですよね。
皆がそれぞれ自分の幸せを追求するのは当然だと思うし、自然なことだと思うのですが「自分の幸せを追求した際に他人の不幸が必要となる」ことってあるじゃないですか。
例えば、二人が同じ人を好きになってしまった場合、どちらかがその相手と付き合ったら、残された方は不幸せです。
もちろん、相手の人がその二人以外の人を好きだった場合は、二人共不幸せになってしまいます。
こんなことは、良く起こることで、しかたのないことなのかもしれません。
でも、昔に比べ、移動手段や通信手段が発達したために人一人の影響範囲が広がってしまった現代社会ではどうなのでしょうね。
昔はどんなに貪欲に自分の幸せを追求しようとも、移動手段や通信手段が乏しいために、その影響範囲には、ある程度リミットが掛かっていたと思うのですよね。
そのため、「人一人の幸せの踏み台になる人間の数」というのは自ずと制限されていたのではないでしょうか。
でも今は、交通手段の発達やインターネットの普及により、下手をすると人一人が世界に影響を与えることだって出来てしまう世の中です。
その影響力がある一人がどんどん自分の幸せを貪欲に追求し始めると、沢山の人がその幸せの踏み台になってしまうかもしれません。
とはいえ・・・幸せか不幸せかは絶対的な条件があるわけではありません。
例えば、絶対的な影響力と富を持っている人と、それらを搾取された側の人を比べた場合でも、どっちが幸せでどっちか不幸かはそれぞれの感覚によるところが多く、それだけではなんとも言えませんよね。
なので、「自分が誰かの幸せの踏み台になっている」という意識さえなければ、両者の幸せは両立しそうな気もします。
でも・・・そういった「情報」という面でも今は昔に比べ、簡単に集められてしまうのですよね。
良く、幸せ不幸せの話をするときよく聞く話ですが
何もない田舎に住む羊飼いの少年の村にある日「テレビ」が届きました。
「テレビ」を観た少年は、その素晴らしさに驚き、自分が今まで知らなかった世界に触れた喜びから幸せな気持ちになりました。
しかし、「テレビ」を知ってしまった少年は、今まで自分が行ってきた羊飼いの仕事が恐ろしく退屈だという事に気づいてしまいます。
そして、「テレビ」を見ることが出来ない日常を不幸だと感じるようになってしまいました。
今の私達は、この羊飼いの少年より遥かに容易に情報を集めることが出来ます。
世の中には、自分より幸せな環境にいる人も居れば、不幸そうな環境にいる人も居ますが、最初の私のように「自分にとって不都合がある情報の方が印象に残りやすい」ため、どうしても自分より幸せそうな人と自分の環境を比較し、幸せではないと思い込んでしまいがちです。
これらのことをまとめてみると・・・
世の中を知れば知るほど、今の状況に不満を懐き、不幸せを感じます。
結果、幸せを追求し始めます。
幸せを追求していくと、どこかで誰かの幸せと衝突して競争になり、結果誰かの不幸せを生み出します。
結果、他者に幸せの追求が伝染します。
スペシャルな幸せを感じると、スペシャルではない日常が不幸せだと感じてしまいます。
結果、幸せの追求を止めることができなくなります。
うわぁ・・・こうやって改めて考えてみると幸せを追求するのって怖くないですか?
世の中では、「人間として成長し続けなければならない」とか「勤勉であり続けなければならない」とか人として立派という勝手な定義を押し付けられがちですが、そういった枷こそが不要な幸せ追求を加速させているのかもしれませんね。
もしかすると、人がそういった世の中の道徳から解放され、「生きているだけで自分には価値があるんだ!」と思えるようになったとき、社会的な成長は見込めなくなるかもしれませんが、今よりは幸せが身近にある世の中になるのかもしれません。
さて・・・皆さんはどちらを望みますか?
とか、散歩していたら急に思ってしまった私なのでした!
Studio POPPOのプログラム兼システム担当です。
ウォーキング・デッド大好き!ダリルかっこいいよっ!主食はキノコです。