人生に「死」を取り入れると捗る?

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「おまえもしかしてまだ 自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」
幽☆遊☆白書の敵キャラ戸愚呂弟のセリフです。あまりに有名ですよね。ご存知の方も多いのではないでしょうか。
情緒もへったくれもなく説明させていただきますと、戸愚呂氏は主人公浦飯幽助に自分を脅かす強敵であってほしいので、危機感を持たせようとして、このような恐ろしいセリフを放つわけです。「あ…これ幽助死ぬんかな?」と思ってしまうほどに危機感がある場面でしたが戸愚呂弟氏的にまだ足りなかったというかんじですかね?

危機感が足りない幽助。しかし、それは人間の機能としてはごく自然なことだった!

「人間の脳は、死と自分を関連付けないようにする機能がある」んだそうですよ。
イスラエルのバルイラン大学の研究結果によると、人間の脳は「死」に対する関心は高いものの、死は「他人にのみ起こる現象」という位置付けをしているとのこと。

友達の葬式。母の死んだ後の世界。父が死に直面している。これらには脳は反応するのに、
自分の葬式。自分が死んだ後の世界。自分が死に直面している。こういうことに対しては脳は何の反応も示さなかったそうです。

自分と死を関連付けるようなことはしない。そうして、死という絶対的な恐怖から精神を守っているのではないか?ということなのですね。幽助が自分が死なないと思っているのは、人間だったら当然の脳の働きだったので、責めるのは酷だったのかもです。

がしかし。一方で「死」を意識しなさい!!という思想もあります。洋の東西は問わないので、これもまた真理なのでは?と思うんですが…、

ドイツにハイデガーという哲学者がいました。彼は、人間の存在は死と密接に関連していると言っています。「生まれて」から「死ぬ」までが、その人の存在の全容であるからです。また、ハイデガーの名言に「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」…というものがあります。確かに。人は、自分が死なないかのようにダラダラと過ごしてしまいがちです。でも必ずいつか死ぬのであれば…、本当にその意味を理解できているのならば、ダラダラ過ごす時間などないはず。…なんだけど、ダラダラ過ごせちゃうということはやはり死ぬという想像はできず、生きていることをしみじみ感じるなんてことは無いんですよねぇ…。言葉で「いつかは死ぬ」って言うのは簡単ですが、頭ではなく心で理解するって本当にできるのかどうか…???

日本だと「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という言葉が知られていますよね。これは「葉隠」という書物の中にある言葉です。江戸時代中期に、隠居した(元)武士の言葉を、別の武士が書き残したものなのです。葉隠は合戦がない世の中で武士がどう生きるか?というテーマの書物なんですが、死ぬことと見つけたりって何でしょうか。江戸時代ということはもう合戦はありませんが、武士といえばハラキリ。いざって時は潔く腹を切って死ねということ?どういうこと〜??

「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」の後にこういう言葉が続いています。「毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり」と。現代語訳すると、「毎日毎日死んだ気になって生きれば、武道を修め、落ち度なく、やるべきことを全うすることができる」。

死んだ気になるということと死を意識することは別ではない気がします。脳は死を認識したがらないけれど、うまいこと生きるには欠かせないエッセンスのようです。

死は想像したくないものですね。でも身近な大事な人が死ぬ日も絶対に来るわけで…。親も犬もいつか死ぬなんて考えたくないよー!!だけど終わりがあるから親孝行を先延ばしにせずに済むのかもしれない。考えたくないことこそ、よく考えた方がきっといいのだろうと思いました。小並感。

栁澤蘭丸でした、ではではまた〜!

人生に「死」を取り入れると捗る?_挿絵1

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