実は生きてました武将の逆、実は死んでました武将もいた

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こんにちは、栁澤です。

「実は生きてた説がある武将」がいる一方、「実は死んでた説」がある武将もいます…。不思議なものですねぇ。
その人とは!なんと、東照大権現「徳川家康」です。家康と言えば健康マニアだったけど天ぷらにあたって死んじゃったという話が有名なハズ…。一旦静岡県で埋葬された後、日光に再埋葬された、と言われています。そのため静岡にも東照宮がありますよね。

しかし家康のお墓はこの2か所だけではなかった…。何故か大阪の堺にもお墓があるのです。ん?大阪…。そう、大阪と言えば大坂の陣。家康は、大坂夏の陣で討ち死にしてしまった!という話があるのです…えぇぇえ!幸村たち、実は勝ってた!?

とはいえ、伝わっている話では「家康、討ち取ったりー!」とか首級をあげられてしまったわけではありませんでした。そのため、特に誰も「家康死んだ」と気付かず夏の陣は進められ、大坂落城となった…という感じです。そうじゃないと辻褄合わんし!

伝わっている話は、こうです!
幸村に本陣に攻め入られた家康は、とりあえず茶臼山(本陣)から逃げます。その途中に、たまたま偶然、誰かのお葬式に出くわした家康は、棺桶の中に隠れることにしました。追っ手は後藤又兵衛氏。又兵衛さんは、よく分からないけど勘が働いて、何となく棺桶あやしいなあと思い、一応槍で一突きだけして、追走再開します。家康はこの時脇腹をざっくりいかれたけれど、棺桶の中は死体なはずなので声などをあげることなく我慢し、追っ手を撒くことに成功。ですがその傷は浅くなく、堺のお寺(南宗寺)になんとか辿り着いたものの、死んでしまいました…。家臣たちは、仕方がなく影武者を立て、南宗寺に家康を埋葬しましたとさ…。

これが、大阪の堺に家康のお墓の由来だそうです!
ただし…後藤又兵衛は、幸村の突撃より前に死んでいるので、追っ手が又兵衛ということはありえない。さらに、南宗寺はこの頃焼けてしまっていて、無かった、という話もあるのでこの辺り、どうなんだろう。あやしいかもしれない話です。

だけど家康にはまだまだ「実は死んでました」という話があるんです…。大坂の陣より前の「関ケ原の戦い」で既に死んでたという話もあります。この時ももちろんちゃんと討ち取られたわけではなく、影武者がすり替わったということに。
こっちの説は、特に「ここで家康が討ち取られました」とかいう碑があるわけではありませんが、この後に幕府が開かれた後、家康の後継者の秀忠が江戸にいるのに駿府で家康が実質的に政治をしていたことなどから、そう想像されているようです。当時は、隠居すれば政治には関わらないのが通例でしたが、家康がそうしなかったことはかなり異例だったと、ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンというスペインの貿易商人が彼の著書に記していたりします。

まだあります!
可愛い嫡男のはずの「信康」切腹させ事件。これは、まだ信長が現役時代の話です。信康の嫁は信長の娘「徳姫」だったんですが、彼女が、姑の「築山殿」と夫の信康に不満があったようで信長に文句の手紙を送ったため、信長が怒って2人を自害させるように家康に命令。結局涙を呑んで、嫡男と嫁に処分を下す…というのが、普通に広まっている話です。あまりのことにびっくりした家臣の石川数正が出奔するくらいの衝撃的な事件だったようです。普通に信長と家康の力関係を示している事件とされています。が、もしこの事件のちょっと前あたりに家康入れ替わりが起こっていたら不思議じゃないよねという説があります。

事件の起こる半年前に、後の後継者「秀忠」が生まれているためです!影武者家康は、自分の子孫に家督を継がせたいはず。となると、邪魔なのは本物家康の嫡男・信康。そのため、この信長の命令は「いい機会」と受け取るのはおかしくないということになります。信康が、手厚く埋葬されなかったのも「信康は実子じゃない」と推測される要因なんだとか。(築山殿が武田に通じて浮気をしていたため、実子ではないと判断された…とも。)

というわけで順風満帆に天下を取ったら取ったで、「実は死んでました」説が付きまとってしまうという困った話でした。人間は志半ばで死んでしまった人は生かそうとして、大成功した人は死んでたことにするっていう、なんていうか、バランスを取りたがる生き物なのかもしれませんね。。

栁澤でした!ではでは!

実は生きてました武将の逆、実は死んでました武将もいた_挿絵1

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