他人の不幸は蜜の味か?:応用心理学

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前回「今やろうと思ってたのに、言われたからヤル気失せた!」話の続きをすると言いつつ違う話題を挟む嘘つきな栁澤です。こんにちは!!

他人の不幸は蜜の味」という言葉聞いたことがありますか?
日本のことわざとは思えないですが、世界中に似たような感情は存在するようです。
「他人の不幸は蜜の味」の元になったのはドイツの「シャーデンフロイデ」という、「(他人の不幸で喜ぶなんて)恥知らずな喜び」という言葉のようですが、中国にも「幸災楽禍」という同じ意味の言葉があります。
「他人の不幸は蜜の味」というめっちゃ語呂のいい言葉になる前からすでに「隣の家の貧乏は鴨の味」という、全く同じような言葉がありましたし、江戸時代にも「隣の家の蔵が売られたwww超ウケるwww」的な川柳が詠まれています。
今で言えば「メシウマ」というやつですね。平成になってついに4文字にまとめられました。
(全文は「他人の不幸で今日も飯がうまい!」ですが…)

さてどうして他人の不幸で人間は「いけない」と思いながらも喜びを感じてしまうのでしょうか?

それは、平たく言えば、自分の人類総順位(?)が上がったような気がするからです。
全く利害関係のない、関係ない人の不幸であっても喜んでしまうことがあることから、分かると思います。全方位に対して「自分が有利であることを喜ぶ」のは生き残るための本能と言えます。他人の台頭やら追い抜かれることに対して無反応なのは逆に生物として危ないです。「他人の不幸を喜ぶのはいけない」と思うことは、後から道徳を学ぶからこそ生まれたオマケです。他人の不幸を喜ぶのは自分の優位性のためなので本能…というか体の機能であり、いけないと思うのは後天的に身に着けた価値観からくるものってことですね。

他人の不幸を知って「自分は恵まれている」「自分のほうがマシだ」と思うことができると、心に余裕が生まれ、人に優しくすることが出来るというからくりなので、「他人の不幸を喜ぶ」という人類の心理の機構は醜いばかりではないと思います。

さて、逆に、前述の「他人に優しく」なる感情である「同情」は、人間の美徳だと思えますか?
まあ思えますよね。「同じ感情になる」みたいな。
でも実は、同情っていうのは自分のほうが恵まれている場合にしかできないんです。
つまり、同情とは優越感から発生している感情なのです。他人の不幸がなければ存在しないことです。「他人の不幸は蜜の味」と「同情」はセットなんですね。
そして、他人が不幸であればあるほど、自分の善行が輝く、というシーソーのような仕組み。

でも、優越感から発生した動機であろうと、善行が成されて、結果的に不幸な人のためになっていれば、どんな感情が発端でも構いやしないでしょう!

例えば、大富豪が成功率30%の手術を受けないと余命3か月しかないと言われた、と泣いていたとしましょう。
3か月以上普通に生きられると思っている人が聞けば「それは気の毒な」と思うでしょうが、明日には飢えて死んでしまうかもしれないスラムの住人が「本当にかわいそう」と同情できるでしょうか。多分できませんよね。こっちは明日の命の保証もないんだ、と思う可能性が高いでしょう。
また最上級の同情を現す言葉に「代われるものなら代わりたい」があります。自分と代わったら、相手はマシになるからです。つまり自分が上であることは、自覚していないようで皆分かっちゃってるんですね。

そんなわけで「他人の不幸を喜ぶ」ことと「他人を思いやって同情する」ことには深い関係がある、という話でした。
今は人の不幸を喜んでいる自分が嫌だと思っても、いつかそれが「他人を思いやる」方向にシフトする日が来ます。
だから、他人の不幸が嬉しく感じても、充電だと思って気にしないでおきましょう!他人の不幸を嬉しく感じるのはいけないことではなくて、生き残るために勝手に嬉しさを抱くように体(心理)が作った仕組みなんですから、抗いがたいですよコレは。

要は言わなきゃいいだけなんです!「メシウマ」と思っても顔にも口にも出さずに平和に過ごしましょう(*´▽`*)ははっ。そして余裕があるなら人に優しくして、還元してあげたらいいと思うのです。

栁澤でした♡

他人の不幸は蜜の味か?:応用心理学_挿絵1

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