明智光秀はどこへいったの?本能寺の変の後も生きてた説

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こんにちは!栁澤です。

明智光秀と言えば歌会で「ときはいまうんちゃら※」という、どう受け取ったらいいか微妙極まる歌を残し、そして「敵は本能寺にあり!」と言ったとか言わないとかで有名な織田信長配下の武将ですよね。

その実態は、信長よりちょっと年上で、禿げてて、「キンカン頭」と罵られて、郷土料理の「鮒の押し寿司」を家康に振舞ったら、それが臭くて臭くて信長に怒られたとか。そんなエピソードが残っています。ちなみにキンカンっていうのは「ハチミツキンカンのど飴(ノーベル)」に使われている、ミカンを小さくしたような柑橘類の果物です。「金柑」と書きます。塗り薬ではないのです。そのツヤツヤぶりが禿げ頭に似ていたのでしょう多分。鮒の押し寿司は馴れ寿司という発酵食品で、その当時の滋賀県(明智さんの郷土)ではごちそうだったそうなんですが、くさかったので、馴染みのない信長氏&家康氏にはごちそうに見えなかったのかも。だけど臭いけどおいしいものは世の中にたくさんあるわけで…納豆だってメジャーじゃなかったら怒られてたでしょう…。明智さんは悲しかっただろうなぁ。私もオーロラ印の味付け鱈を臭いって足蹴にされたらヒドイ!って思いますもの。あ、オーロラ印の味付け鱈って言うのは越前では給食に出てくるくらいメジャーな食べ物なんですけど臭いです。でもその臭さがたまらにゃい。そして肴にぴったり。

そんなことはまぁどうでもよくて、一番大切なのは「本能寺の変」ですよね!明智さんが何で本能寺の変を決行する気になったのかはよく分かりません。上記のことや日頃の鬱憤でもう勘弁ならんっていう気分だったのかもしれませんし、陰謀論もありますし、そこらへんは日本史最大の謎などと言われていますね。個人的には邪馬台国もよほど謎なのですが、戦国ブームにあっては、やはり本能寺の変を起こした動機は気になるところ。でも明智さんはもういないのだし謎は謎のままです。

本能寺の変では、信長氏の遺体が見つかっていないのも謎なんですが、その後三日天下で追いやられた明智光秀さんがどうなったかも謎です。必殺「中国大返し」で帰ってきた猿こと秀吉氏との間で「山崎の戦い」が起こり、その後落ち武者狩りにあって殺されてしまった…と伝わっています。

が…、この時殺されたのは光秀の影武者だった説があります。結構根強く、人気のある説です。よく分からないけど耐え忍んだ末に嫌な上司に謀反を起こした光秀に、雇われ人の希望のようなものを見てしまうからなのかもしれません…。ハゲ呼ばわりする上司とかパワハラですし…理由も聞かずに足蹴とかよくない。

影武者が殺されたのだとしたら、光秀はどこへ行ったのでしょう?2つ説があります。

まず有名なほう。これは、家康にこっそり助けられて、「天海(てんかい)」というお坊さんとなって家康に仕えたという説です。天海は家康に特に重用されたと言われています。家康のお墓のある日光には「明智平」という地名があったり、なんとなく家康と明智さんの関係を匂わせる地名ですよね…確か、いろは坂に入る手前にあったような…。日光に旅行に行ったら、絶対に外せないスポット「華厳の滝」「中禅寺湖」などを見に行く途中に目にするはずな感じの場所。つまりとてもいい場所ってことです(多分!)そんないい場所の名前に「明智平」と…誰がつけたのかは分かりませんが汗

天海は、自分の半生を語らないまま100歳超えの長生きをします。天海が没したのは「寛永20年(1643年)」なのは分かっており、それを逆算して生まれた年を見てみると大体光秀と一致するんだそうです。しかし100歳を超えるって、人間五十年と言われていた当時としては、人の二倍も生きている化け物級長生きですので、途中から光秀の子孫が天海をやってたかもねっていう説もあります。自分の半生を自分で語らなかったため、光秀だったのかもっていう想像も働いちゃうわけですね。また、2代将軍秀忠の「秀」の字は光秀の「秀」からもらったのかもという話もあります。

もうひとつの説は、影武者が殺された後逃げのびて、そのまま美濃で生きた、というお話です。これも伝説として残っています。この伝説の拠り所として、美濃には光秀のお墓が残っています。美濃は光秀の母方の土地なので、光秀はそこで名前を変えて再起をはかった…と伝説では語られています。お墓もまさにその地にあるのです。しかしその伝説によると光秀の最期は「関ケ原の合戦で東軍に味方しようとして、馬で川を渡ろうとしたら、流されて溺れてしまった」というもの…。うーーーん。落ち武者狩りで農民に殺されたのとどっちがマシかとちょっと考えてしまう死に方ですが…。でも、光秀が実は生きていたというのはロマンがありますね!その時に「本能寺の変を起こそうと思ったのは、これこれこういうことがあって…」と書いておいてほしかったものです。。

栁澤でした!

※「時は今 雨が下しる 五月哉(ときはいま あめがしたしる さつきかな)」という句ですが、光秀氏は「土岐(とき)」という名門一族の出身だったので、この「時」を「土岐」と読み替え、「雨」を「天」と読み替えると、「土岐氏は今、天下を治める五月だなー」とも読むことができてしまいます。なので、これは光秀が謀反を決意している様子の句だ、というお話がよく出てきますね。
これに対して続けて歌を詠んだ人がいまして、この人は「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでいます。里村紹巴という、当時の文化人みたいな人で、別に武将でも大名でもありません。この連歌(複数の人が詠んだ歌)にも色々解釈があり、「花(信長)を落っことして、池の流れ(朝廷が治める世の中)が止まってるのを何とかしたほうがいいと思うよ」という、光秀にエールを送る意味だったとも取れるし、「花(光秀の計画)はダメになるから、思いとどまりなさいよ」と、光秀を思いとどまらせようとしている歌とも言われていて、もう、真逆はいくらなんでもね、ますますわけわからなくなるよね!!という話でした…。でもまぁ文化人が武将の苦悩とか、そういうのを鋭く指摘するもんでしょうかね?光秀も里村さんも、適当に詠んで適当に意味がなんか深くなっちゃった…っていうのが実態だったりして。百人一首とか見ていると、「この言葉がこれとこれを表していて二重の意味なんだよ」みたいなのが多すぎますが、本当に難しい。もう下手したらロンゴロンゴ文字(イースター島で使われていた、未だに解読できていない文字だよ!)より難しいのではないか、日本の和歌。

明智光秀はどこへいったの?本能寺の変の後も生きてた説_挿絵1
なんとか歌をひねり出している明智(仮)さん?

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